シンガーソングライターの手仕事屋きち兵衛さんがツァーの報告を書いて下さいました。
モンゴル行き
8月22日から29日までのモンゴル行きは、とてもいい旅だった。この企画は、「モンゴルの子どもたちを支援する会」によるもので、その目的はその名の通り、恵まれないモンゴルの子どもたちへ支援金を、それぞれの施設へ届けるとともに、日蒙両国の文化交流を計ろうと、年に一度、スタディツァーとして実施されているものだ。今回、私が参加したのは、この会の事務局長が友人で写真家の宮下さんであり、報告担当者がスチントさんであり、その二人から「モンゴルできち兵さんのコンサートをやろう」と誘われたからだ。
私は、コンサートにかき付けて、アメリカ、ベトナム、スペインと小旅行をしたのだが、今回のモンゴ行は、ことのほか印象深いものとなった。
モンゴルに着いて、まず驚いたのは、ウランバートルの街が車であふれていることだった。走る車は日本車と韓国車が多く、トラック中国車が多く、そのどが中古車で、そのせいか街なかは向こうがかすんで見える程空気が悪かった。道整備も進んでいるといえず、信号機の無い交差点も多く、車はいつも渋滞にまき込まれ、あちらこちらでクラクションが絶えず鳴り響いていた不親切な道路にあふれかえる車の光景、日本では見られないものだが、その中を自在に走り抜けて善く運転手の手前の見事さには、つくづくと感心させられてします。市内のパーキングエリアにも白線は無く、ランダムに止められて車の隙間を、数センチの危うさで行きつ戻りつ車を切り返し、ひっきり無し対向車線を大胆に横断し、その運転は強引とも慎重とも見え、静と動、緩と急を使い分けての魔術師の様だった。これは、ベトナムでも感じたことなのだが不親切な交通環境の中を、こんなたくさんの車が、かくも見事に往来できている様を目にすると、なんとも不思議な感動を覚えてしまう。日本ではインフラが整備され、信号機や案内板、道路標識や白線があり、最近はカーナビが普及し、それらが在ることを当たり前として運転しているのだが、実は、これは自分の判断を頼りにしているのではなく、それらの指示によってそれができているのに過ぎず、日本でもしこれらが無かったとしたら、一体どうなるのだろう。おそらく日本でなら、人も車もにっちさっちもいかなくなってしまうだろう。このことは、車の運転ばかりででなく、人生という旅にも同じことが言えるような気がする。私は、モンゴルの街で、車の群れに飲み込まれ流されながら、なんの目印のないモンゴルの大平原を運ばれながら、としても非力なちっぽけな自分を感じた。
人類は白色人種コーカソイド、黒色人種ネグロイド、黄色人種モンゴロイド、と大きく三つのグループに分けられている。日本人の私は無論モンゴロイドだが、日本人としてアジア人として、そのネーミングの由来となっているモンゴルの人とは一体どんな人達だろう?と自分のルーツを見るように、とても興味があった。モンゴルというと、広大な草原と遊牧の民、ゲルと羊の群れ、という先入観があり、現代のわたし達の暮らしとはかなり違い、そこに住む人達の趣も違っているのではないか、と思っていた。が、実際にモンゴルに来て見ると、やはり都会は都会で、車と人と建物が混在し、あまり変わった光景を目にすることが無く違和感は無かった。それでも時折、丹前のような衣服に腰帯を結び、皮の山高帽子に長いブーツ姿の人を見ると、モンゴルを実感し、改めて民族衣装の持つ力を感じた。私のコンサートの時に、同行したSさんが着物姿になってくれたのだが、やはり注目度が高く、モンゴルの人たちと度々写真におさまっていた。わたしも、今度はモンゴルの街を着流しで歩いてみようと思う。
モンゴル人の印象は、優しくて、静かで、大きい、ということだった。優しいことは、わたし達の通訳をしてくれた女性達や、旅を手助けしてくれたモンゴルのスタッフの人達から主に感じたことだが、これは、この人達が日本で暮らした経験があり、日本人をより理解していたかも知れないが、その心遣いが本当に有難かった。優しくて親切は、かつての日本人の形容として必ず言われたことだが、現在の日本人はなんと言われているのだろう。西洋化を押し進めて、こんなにも競争化してしまった現代では、優しさと親切が置き去りにされ、こんな社会だからこそ、優しさと親切が改めて求められているように思う。
モンゴル人は静かだ、という印象は、わたしは結構強いインパクトだった。ウランバートルの街で、市場で、デパートで、人があふれていても、そこでは大きな話し声や笑い声はあまり聞かれず、ざわめきなども感じなかった。一対一で話しても、モンゴル人の人は静かに微笑みながら、口数少なく話す感じで、これはわたしたち外国人に対してばかりではなく、観察していると、モンゴル人同士でもそうで、笑い声も話し声も小さく、はたから見ていると、内緒話をみたいだった。
日本では、至る所で声があふれている。それは案内のアナウンスだったり、BGMやCMだったり、信号機までがなっている。そんな騒々しさの中で暮らししていれば、人も人の声もそうなってしまうのは当然のことかもしれない。モンゴルは街も人も静かだった。
日本でモンゴル人といえば、朝青龍と白鵬だが、現在の相撲界ではこの二人だけではなく、モンゴル人力士の活躍がめざましい。このことは、モンゴルでは元よりモンゴルの相撲が盛んであり、あちらも相撲の本場なのだから当然のことだ、と思っていたが、こちらにきて、そのことが更に当然たと思った。それは、モンゴル人たちがとても大きかったからだ。背は高く、胸板も厚く、手足も大きく立派で、あちらのもそちらにも朝青龍と白鵬がいた。聞けば、モンゴル人男性の平均身長は178センチだそうで、日本人のそれよりもかなり大きく、日本でモンゴル人力士が活躍がもっともだ、と納得した。大きいことは女性たちも同じで、上下にばかりでなく、前後左右にも立派で、そんな女性がサンダルに素足でスタスタ歩いているはなんとも頼もしい
感じだった。「日本では今、ダイエットがブームになっているけど、モンゴルはどうですか?」と聞くと、「モンゴルでは男性も女性もフトイくらいの人がモテるからそうゆうことはないです」との答えだった。そんなモンゴル人の中にあって。日本でも小柄なわたしは更に小柄で髭を生やした小学生のようだと言われ、すっかり落ち込んでしまった。
モンゴルでわたしは三ヶ所でコンサートをした。その最初は、0才〜14才までの子供達が暮らしているCOC孤児院だった。わたし達は、到着すると、既に子供達は勢揃いして待っていて、顔を出した途端に拍手されてしまった。私は、リハーサルもできないまま慌てて着替え、席に着いた。そこで、まず子供達から歌と演奏と踊りによる歓迎を受け、わたしもお礼に、30分程度唄った。わたしの歌を子供達がどう感じたのかはわからないが、わたしは、間近からわたしをじっと見ているその目に、長いこと忘れていた遠い日の感覚が突然呼び起こされ、一瞬歌詞が飛んでしまった。私は、孤児ではないが、物心がつく前に父を亡くし、母子家庭となり、施設で暮らしていたことがあった。このことは、今でも今でも詳しく口にすることが出来ないでいるのだが、あの心がひもじいと言うか、肩身が狭いと言うか、だからこそ意地っ張りになってなっていたと言うか、そんな少年の頃を思い出し、わたしも確かにこういう目つきをしていた、と切ない懐
懐想に陥ってしまった。この施設では、子供達が学校に行くようになると、勉強は勿論のこと、民族音楽や舞踊を身に付けることに特に力を入れている、とのことだったが、その通り子供達の演奏と演舞はとても素晴らしいものだった。昔から、学問は身を立て、芸は身を助く、と言われているが、このことは世界共通に言われていることで、本当にそうだと思う。わたしなどはその典型で、も歌をやっていなかったら、こうしてモンゴルには来られなかっただろうし、きち兵衛は今のきち兵衛になっていなかったに違いない。
二ケ所目のコンサートは日本文化と日本語を勉強している大学生の研修施設でのものだった。ここは、外国人観光客の体験施設として、学生達が自主運営しているとのことだった。広いモンゴルで車での移動は、予定時間が予定通りにはいかず、ウランバートルの幹線道路が工事中で渋滞がひどく、会場に着いたのは夜8時をまわっていた。コンサートを終えるまで物を食べないわたしは、車の揺れと空腹でフラフラになりながらステージを終えた。
おかげで、その後に学生達がわたし達のために持て成ししてくれたモンゴル風シャブシャブは、ことのほか美味しかった。そしてその時に、学生たちが日本の歌を日本語で唄ってくれたのだが、その中に「涙そうそう」があり、わたしはギターを伴奏でそれに加わり、改めて音楽に国境は無いことを実感し、それを共有し共感できる喜びを、つくづくと感じた。
今回の旅では、キャンプ場のゲルでの一泊が予定されていた。わたし達は市場で自炊のための食糧などを買い込み、ウランバートルを出発した。市街地を抜け、交差点を幾つか過ぎると、町の様子は一変した。大きな建物や人の群れがなくなり、道路沿いにはブロックやトタン張りの小さな点が点在するようになり、ほどなく、人もそれらも見られなくなった。そしてすれ違う車もまばらになってくると、そこは正にモンゴルそのものだった。薄黄色の広大な大地はそこまでももうねり、薄曇りの白い空が遠く高く広がって、天と地の接線は遥か彼方にかすんでいた。車は時速120kmを越えるスピードで走っているのに、広い景色は何も動かず、時間も思考もしまってしまったようで、わたしはただボウッとして外を眺めているばかりだった。モンゴルの国土は日本の4倍程もあるのに、人口は日本の50分の1しかいない。その全人口240万人余りの内、3分1の80万人近くの人口がウランバートルに集中している。モンゴルが発展しつつあるとはいえ、これ程に一極集中している国は他にあるのだろうか。ウランバートルから一歩でれば、そこはもう昔ながらのモンゴル。このことは国として、過疎と格差の問題として、その解決は難しいことと思いながら、わたし達のような外国からの観光客すればそれが魅力であることも事実であり、ここに観光地作りのヒントがありそうな気がする。
ウランバートルからキャンプ地を目指して長い車の旅は、モンゴルの景色を充分に満喫できるものだったのだが、道中の幹線道路が約70km工事中だったこともあり、道なき道を砂塵と共に蛇行しながら行った為、予定時間が大幅に遅れてしまった。おまけに、白かった空が灰色に変わると、風も強まり、雨粒も大きくなり、そのことが却って貴重な体験をさせてくれることになった。
実はわたしは、10月4日にチャリティコンサートをすることになっていたが、それは白血病治療のために安曇野市の県立こども病院に入院しているモンゴルの少年ヒシグト君を支援しようというもので、宮下さんが執行委員長をしている。ヒシグト君は入院から既に半年程になるのだが、彼には世話をする母親と日本語が通じる父親の両方が必要で、母親が泊まりながら、父親は市内の(U)さん宅から病院に通っているが、モンゴルに残された妹達は今、遊牧生活をしている祖父母のもとに預けられている。
ヒシグト君を支えるために、医療スタッフと共に、ご両親が、Uさんが、その仲間達が、そしてモンゴルのおじいさん達が善意と好意で繋がっていることに、改めて人間関係の大切さを思ってしまう。
キャンプ場に辿り着けなかったわたし達は、スチントさんの計らいによって、急遽ヒシグト君のおじいさんのセトーさんのゲルにお世話になることになった。
セトーさんのゲルは、何も無い地面の上に顔を出した「きのこ」の様に、二つ並んで立っていた。降る雨の中、挨拶もそこそこに招き入れられたゲルの中は薄暗く、置かれている家具もベッドもその広さも、想いのほかコンパクトで、大人が十数人いると、肩が触れ合うほどだった。そこでバター茶や馬乳酒、チーズやお菓子を頂きながら雑談し、その未は馴染みのないものだったけれど、セトーおじいさんとおばあさんや、若いお嬢さんの笑顔と心遣いが、なんとも有難く嬉しく、わたしはその度に手を合わせてしまった。
ボツボツとゲルに当たる雨音を聞きながら、丸い空間に身を置いて膝を抱えていると、ふいに遠い記憶が私の中に次々と蘇ってきた。それはとうの昔に忘れていた少年の頃のことで、仲間と作って遊んだ秘密の小屋のことや、家出しての野宿をした洞窟でのことや、またさらに昔の、ひ弱な幼児だった頃に爺様と二人きりで井炉裏ばたに居たことなどが、記憶というより感覚として思い出され、わたしはタイムトンネルに入ってしまったようだった。
暫くすると、雨が止み、わたしはスチントさんと二人で近くの丘の頂上まで登ってみた。歩いてみると、モンゴルの草原は草はまばらな礫土の原で、風は冷たく、わたしはマフラーと手袋を身に付けて、つまずきながら息を切らし、この地の厳しさをふと思った。頂上から見渡すと、高原はどこまでも穏やかにうねり広がり、遠くに羊や馬や牛達の群れが散らばって、灰色の天空がドームのように覆っていた。ゲルにいると、夕食の支度が始まっていた。セトーさんは私達をもてなすために、羊一頭を提供してくれたのだが、生まれてはじめて、その解体の様子を遂一目の当たりにしたのだが、その捌きの見事さに、言葉を失って見入ってしまった。祈りを捧げることから始められた作業は、刃渡り15センチ程度のぺディナイフ一本で最初から最後まで行われ、あたりに血一滴もこぼさず、作業する男の衣服も汚さず、全ての関節に刃先を丁寧に入れてはずしながら、まるでプラモデルを丁寧に分解してゆくように手際の良いきれいなものだった。口数少なく作業する男二人の横で、はずされた部位を女性達が淡々として洗い分け、それをみているわたし達も皆無口で、そこにはなんとも言えない粛然とした静かさが漂い、わたしも身動きが出来なかった。
骨が付いたままの大量の肉は塩だけが振り掛けられ、みじん切りの玉ねぎと共に、大きな鍋に入れられた。そしてそこに熱く焼かれた挙程の石を5,6個肉の間に入れて、鍋は密閉され、穏やかに燃えている火床に掛けられた。水を全く使わずに、肉と玉ねぎの水分だけの鍋は、蒸し煮ともに蒸し焼きとも呼べる初めて知る料理だった。わたし達はゲルの中で、床に置かれた鍋を中心に円座になり、骨付きの肉をナイフでそぎ取りながら手掴みで食べた。それは、「何の肉よりも羊の肉が一番美味しい」とセトーさんが言った通り、本当に美味しかった。よくマトンは臭みがある、と言われるが、そんなものは全くなく、実に滋味あふれるものだった。
食べて、飲んで、話して、すっかり酔ってしまったわたしは、外に出てみた。以前からモンゴルの満天の星を一目みたいと思っていたのだが、生憎の空模様でそれは叶わなかったけど、それでも少し開いている空に光る星達はどれも大粒、シンとして美しくゲルのすぐ近くに沢山の羊達がうずまり、互いに体をはみ合いながら、のんびりとして穏やかだった。その夜、女性達はベッドに、男性達は床に敷かれたジュ―タンの上にごろ寝だったのだが、わたしはセトーさんから豪華な毛皮のドテラ?に金色の帯を結んでもらい、おかげで少しの寒さも感じず、ぬくぬくと眠ることが出来た。
翌朝ゲルを出発する時、皆で記念写真を撮ったあと、セトーさん一家がモンゴルの歌を唄ってくれ、わたし達もお返しに「故郷」を唄った。別れ際に交わした握手と抱擁は、セトーさんの手はずっしりとしていて温かく、奥さんの髪は煙の匂いが香しかった。
モンゴルでの最後の夜が、最後のコンサートだった。会場となったホテルのホールには、わたし達一行と、この旅をサポートしてくれたモンゴルのスタッフ達とその家族の人達や、日蒙交流会の人達。そした一般の人達が集まり、わたし達はオリジナルを中心にいつものように弾き語り、唄った。
「ぼくは、今回はじめて訪ねるモンゴルの旅をとても楽しみにしていました。それは、モンゴルは日本とは大分違う国だ」という印象を持っていたからです。そんな違う国にいるモンゴル人って、一体どんな人達だろう?とそのことに一番興味ありました。ぼくはアジア人で日本人のモンゴロイドです。だからモンゴルに来たら、その原点というか、ぼくのルーツというか、本当のモンゴロイド人が見られるかもしれないと思っていたからです。そして来て見たら、確かにその人達がいました。僕が受けた印象は、モンゴル人は東洋人でもない、西洋人でもない、どこにもいないモンゴル人というモンゴロイド人でした。乱暴な言い方ですが、ぼくはこれまで、日本人など東洋人は小さくてうるさく、西洋人は大きくてきつい、と思っていました。でも、モンゴル人の人達は違っていました。モンゴル人は大きくて、優しくて、静かな人達、というのがぼくの印象です。こちらへ来てたったの一週間程ですが、それでもこのモンゴルの空と大地と風を体感し、一泊とはいえゲルでの暮らしを体験して、人間もやはりそこに生えた草木のように、自然に生まれ、自然に育ち、自然の一環として自然に相応し、存在となり、モンゴル人もそうしてモンゴル人と成ったのだと感じました。
「ぼくは、昨日、ウランバートルの自然博物館に行ってきました。そこでいろんな物を見て来たのですが、中でも、大きな恐竜の化石が立体展示されていて、その大きさに改めて驚きました。モンゴルと言えば、ゴビ砂漠でも有名ですが、ゴビは恐竜の化石の宝庫と言われ、沢山の化石が発見されています。
モンゴルはかつて恐竜の国だったのかもしれません。恐竜と言うと、それは字のように、凶暴で獰猛なイメージがありますが、最近の研究では、実はそうではなく、恐竜はもっとも優しくて穏やかな生き物だったのではないかと考えられています。実際に。卵をしっかりと抱いたままの物や、子供達を一家一族で守るような状態で発見されている化石などがたくさん見つかっています。恐竜は当時最大の生き物だったのですが、丁度、現代の鯨と象が地球最大の生き物でありながら、もっとも穏やかな生き物であるように、恐竜も本当は優しい生き物だったのではないだろうか、とぼくも思います。そしてまた自然博物館には、発掘された埋葬人骨が当時のままに展示されていたのですが、その人の身長が180センチ余りあることに驚いてしまいました。大きな恐竜と大きな人骨。ぼくはそれを見て、モンゴル人の秘密がなにかが少し分かったような気がしました。モンゴルの人達が西洋人でもなく、東洋人でもなく、独特な存在で、大きくて優しくて静かな人達であることは、今は消えてしまった恐竜の何かを、大切な何かを受け継いでいるからではないだろうか、と思いました。そして、改めて、大きなものは優しくなければいけない、優しくなければ大きくなっていけない、と教えられた気がします。」
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